石和関係放送のお知らせ
ご報告が遅くなりましたが、5月1日より、先日の石和の神事の様子をホースTVの5月のニュースの中で取り上げていただいたものが放送されています。
また同じく石和に取材に来ていただいた、フジテレビの『馬と翔る日』の放送は5/31と6/7の二回です。
お見逃し無く!
水破黒
ご報告が遅くなりましたが、5月1日より、先日の石和の神事の様子をホースTVの5月のニュースの中で取り上げていただいたものが放送されています。
また同じく石和に取材に来ていただいた、フジテレビの『馬と翔る日』の放送は5/31と6/7の二回です。
お見逃し無く!
水破黒
牧場での人気者、初心者向けの流鏑馬にもずいぶんと頑張って来てくれた信頼できる友、雲龍号が牧場でのお役目を終えて引退生活へと旅立っていきました。
これからは、のんびりと余生を楽しんでもらいたいですね。
写真の林さんがちょうどその日に牧場を訪れ、写真をアップしてくださいましたのでここにご本人の同意の元、以下にリンクを貼らせていただきます。
http://www.ne.jp/asahi/dff/255/070307/index.htm
なんかちょっと寂しそうに見えますが引越し先は気に入ったみたいなので良かった、のかな…
私が牧場に来てから、最初に来た新馬(牧場に残った馬で)だったので、とても思い出深い雲龍。何だかとても寂しいなぁ…。
水破黒です。第58回 正倉院展へ行ってきました。
毎年行きたいなぁ行きたいなぁと悶々と思いながらも、なかなかスケジュールが合わず断念してきましたが、今年は聖武天皇の御遺愛の品が献納されてより1250年の節目であるためか、会期もこれまでより長く、またなにより今年は馬具が出 ていましたのでイベント明けなのに強行軍で!!
正倉院展は聖武天皇のお后であった光明皇后が、天皇御遺愛の品650点あまりを、天皇の悲願であった東大寺の大仏に献納することで、帝の御霊と世の人々に平安が訪れるようにと願ったものです。
その後にも皇族・貴族により、大仏開眼式の際の祭具など様々な宝物が納められています。
相当数の武器、武具も納められていたそうなのですが、恵美押勝の乱で出蔵され、多くが戻らなかったそうです。それでもなお百数十の武器・武具・馬具が残っているそう。
今回の出典品にはその乱より戻って再度宝庫に戻された胡禄もありました。(矢柄が細かった!)
が、やはり今回私の本命は馬具!
出陳リストには馬の鞍2背と障泥(信長が考えたとか千利休が考案した、とか説がありますが、そんなことはありません、古墳時代からあります)、尾袋、となっていたのですが、細かくはそれに加え、轡、胸懸・尻懸・面懸、壷鐙とその力革、シタグラ、腹帯等がありました。
正倉院鞍は写真などでは良く見ていましたが、改めて目の前に1250年存在するものをどーんと据えられると、なんとも言えない気持ちに…。
二背ある片方は鞍骨のみ、もう一つは鞍褥(クラシキ)がついています。この鞍褥は、美しい花喰鳥や唐草の文様が入っており、フスベ革か染め革かで議論されていたようですが、最近の研究で染革だということがわかったようです。
形は居木が4枚の古い形式ですが、後輪につけられた傾斜など、殆ど全体の作りは現在の和鞍と変わりません。この頃には既に出来上がっていた形状だと思うと、和鞍の完成度の高さを思います。
鞍骨の大きさは我々が使っている水干鞍よりもたっぷりとしていて(計った訳ではないので見た感じですが)、厚みもあります。
材質は、一つは総黒柿、もう一つが居木が樫、前後輪が桑で両方とも素木。
実用でもこのように素木のものを使っていたのか、寺社奉納用に素木のものを用意したのか、そのあたりはわかりません。シタグラには漆をかけてあったので…
居木を前後輪に止める皮ひもは、今のように居木にあけた穴を通すのではなく、飛び出して前輪に組ませた居木に引っ掛けた革緒を、両輪に穿った穴へ通す方式で、正面から見た際に今の和鞍と違い組んだ緒が見えます。
両輪を抜けた革緒は再度居木の中へ。
腹帯は3パーツに分かれていて、腹帯の根2つと腹帯。居木に腹帯の根をかけて、シタグラの四角い穴に通し、馬の腹のほうへ出た腹帯の根の端に縦に入った切れ込みに、麻を畳んだ腹帯を締めます。これだとちょっと乗ったまま自分で締めるのは無理でしょうね。
壷鐙は、ほんのわずかに舌がついている形式。装飾はなし。
居木にあく鐙吊の穴が、中・近世のものよりもずっと前についていました。
居木が前輪に向かい反り上がる傾斜の途中に付くような位置です。
ウエスタン的に足を前に出して乗ったのでしょうか。
菊地親方も、足を前に出して乗るのは世界共通のワーキングスタイルの乗馬姿勢!と言っていますが。
つま先だけを突っ込む壷鐙との兼ね合いを考えると非常に面白いと思いました。
その、前めの力革穴に通す力革は、二つ折りで30センチくらいの厚めの一枚革の革帯で、端にはベルトのように穴があいています。この穴に鐙に付いた鐙靼(ミズオ)を鉸具で止めるわけです。
この鉸具の位置が絶妙で、太ももにもふくらはぎにも当たらない、開いた膝の内に入るような、そんな鐙靼と力革の長さ設定でした。
鐙靼は袋状に縫い合わせた皮を、鐙の鉸具頭と、鐙靼末端の鉸具との間を総丈三つ折の状態で使っており、その強度がうかがわれます。これが居木にまでかかってくると、太ももがごろごろするしますので、力革が別の作りなのは合理的です。
ちなみに力革を変えるなどしないと鐙の長さ調整はできないです。
三懸は皮革製。金具や鉸具(バックル)を多用しており、面懸もうなじ部分や頬革部分など、織のものと比べ自由にサイズ調整が効きます。
このほうが便利なのじゃないかと思ったのですが、どうして織の額革部分と頬革部分が固定されたものに変わっていったのでしょうね??
実際面懸を使って、馬によっては耳がきついとか額部分がちょっと下過ぎ…とかそういったこともあるので、ちょっと疑問に。まあ財力があってこの馬にはこの馬具、と決まっていたら、関係ないといえば関係なかったのかもしれませんが、でもサイズって調整効いた方が便利じゃありません?
胸懸だけがどうも使い方がわからなかったです。
…というのは当時の鞍には前輪にはシオデがなく、後輪だけなのです。
胸懸を直接前輪にかける、くらいしか思い当たらないんですよね。
轡はかなりどっしりとした太いもので、ハミ部分には絵図によると刻みが入っているようです。杏葉轡のような雰囲気の鏡板がついているのですが、これも杏葉と表現したものか?
ハミとしては相当重いのではないかと思いました。
大坪流では口向きが軽い馬には軽い轡、重い馬には重い轡をかけるように、と言っていたと思いましたが、この頃は関係ないのかな?
細い轡の方が効きますが、これは刻みが入っている分、太くても効くかも。
古墳時代の轡などでハミ身を、ねじり合わせた金属で作っている物があり、そんな名残かもしれません。
この轡を、鉸具で頬革に止めます。
手綱は、神社の神馬の木馬がつけている唐鞍のように、袋縫いの布手綱でしたが中に何か詰め物が入っている風でした。
今回展示された鞍2背の他、正倉院にはあと8組のほぼ皆具が揃った馬具が伝わっている(どれも様式から、高級官人のものではないと考えられているようです)とのことですが、次はいつ出陳されるんだろう…同じ物が次に出るのは、早くても10年は先と言われる正倉院展、別の馬具にまた会えたらいいなぁと思いました。
ちなみに今回私は平日の朝一で行ったのでスムーズに入れましたが、出てきたらもう会場の外まで大行列でした。
去年は行ったのに見られなかった人も出たそうで…土日は要注意です。
とはいえ平日でも十分押し合いへしあいでしたが!
昼には出てきたので、私はこのあとやはり行きたい行きたいと思って行けずにいた橿原考古学研究所付属博物館へ。これはまた別に。
aammee記
今年も牧場に高田馬場流鏑馬への馬匹提供の依頼があり、10月8日9日の両日、親方や茶尾助さんらとお手伝いに参加してきた。
高田馬場流鏑馬は、毎年小笠原流斉藤分教場さん(水稲荷神社内)のご一門にて挙行されている。この流鏑馬の起源は、徳川八代将軍吉宗にさかのぼる。吉宗は、各家に伝わる古書を調査せしめ、久しく途絶していた流鏑馬の儀式を制定した。
これに基づいて、享保十三年(一七二八)世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を高田馬場で行ったのが将軍家奉納の穴八幡神事流鏑馬の初めである。元文三年(一七三八)には竹千代(後の十代将軍家治)の誕生を祝って興行が行われ、以後、厄除けおよび将軍若君誕生の折は流鏑馬が奉納された。
流鏑馬は明治以後中絶したが、昭和九年五月、皇太子ご誕生奉祝のため穴八幡境内で再興され、戦前は数回執行された。戦後は、昭和三十九年水稲荷神社が現在地(西早稲田三丁目)に移ったのを機会に、流鏑馬の古式を保存するため同社境内において復活し、例年十月体育の日がその実施日となった。
昭和五十四年からは会場を近くの戸山公園内に移して行われるようになる。昭和六十三年三月四日新宿区指定無形民族文化財に指定され、今日に至る。
使用する馬は6頭。
御殿場のOさんのところから4頭と、牧場から2頭(力丸、吉丸→紅鹿毛)。
当初は吉丸だったのだが、練習であまりにも走らないため(彼にとっては、御殿場の4頭が皆♀だったので走るどころではなかったらしい 笑)、親方の判断で赤城帰りの紅鹿毛に来てもらい、本番当日は頑張ってもらうことになったのだ。
前日の練習のあと、夕食を水稲荷さんでいただく。しゃぶしゃぶをご馳走になる(嬉)。
一人1パックずつ配られ食べきれない(爆)が、残った肉は高校生の門弟さんたちのお腹の中に納まり、一件落着(笑)。
その後は門下のシニアな方や宮司さんと騎射談義・鐙談義。
ここで親方が仕掛けた。
鐙の使い方について質問を畳み掛ける。宮司さんも数多くの鐙を見せて色々と説明して下さった。
スタイルや考え方の違いは周知のことで、議論が一致を見ることもないのが分っていたため、熱のこもった談義の展開にはかなりハラハラしてしまった。
ただ、使いやすい鐙とその要件(アールの角度やヤナイバの深さなど)については意見が一致したのは興味深い。
(見せていたただいた鐙の一つ。江戸後期のもので、鍛鉄の上から漆を塗り勝虫の蒔絵を施している。刺金の下の紋は片面にしかなく、紋が入っている方が外側、つまり刺金が外側を向くような吊り方だったと推測される)
宮司さんの引きとめを何とか振り切り(笑)、銭湯に行った後弓道場で就寝。
翌日は五時起きである。
◇◆◇◆◇◆◇
本番当日。五時起床、五時半に出発し、会場で練習。前夜に入れ替わった紅鹿毛は、その安定した走りで好印象を与えたようだ。力丸も前日から評価が高い。
ただ、乗り手の力量によって走りっぷりを変えてしまうところが和種らしい。馬方で付き添う我々も安心して見ていられる(ヨッシーと違って笑)。
本番始動はお昼から。練習着から装束に着替えられた門弟さんたちが馬装を整え、穴八幡神社に出発。穴八幡さんで神事を行い、パレード用に馬も鞍の上からさらに布帯を巻く。完全に鞍がずれない、外れない状態にすることで、転じて「馬装は完璧にした」という意味付けなのだそうだ。
30分ほど滞在したのち、穴八幡さんの神職行列と合流して会場である戸山公園に移動。
交通整理の警官が出動してくれてはいるものの、車の往来のある車道を進むのは緊張する。さらに沿道の観衆の数もハンパではない。二頭の和種馬は落ち着いたものだったが、今回がデビュー戦という4歳のアパルーサは後ずさるは、後肢は縮むわで、かなりヤバイ状態だった(汗)。
会場に到着するなり開会。
馬場の沿道を往復してから流鏑馬が始まる。射手は五騎。流鏑馬の後に稚児母呂引きがあり、騎射挟物に続く。馬場は240m、的間は60mと聞いたが、実際はもっと短いかもしれない。内容や装束の決まり事は鶴岡八幡宮の流鏑馬と同じ。
本番が始まる前に茶尾助さんと一緒に馬場下に移動し、馬止めポジションでのサポートに入る。
ここでは、射ち終わった騎馬は一頭ずつ走路脇の沿道を常足で馬出しまで戻る。乗り手がしっかりしていないと走路を爆走する馬とすれ違うときに逃げ出そうとする馬もいて、ちょっと緊張する。
都心で開催される流鏑馬で、天気にも恵まれたため、多くのお観客が集まり盛況のうちに終わった。牧場の二頭はよく走った。がんばった。
「ちっちゃいけど、よく走るね~」なんて印象をお客さんにも与えられたんじゃないだろうか?
ご一門の方方の受けも良かったし、来年も使ってもらえたら嬉しい。
いつかはアナウンスで「日本古来の和種馬で…」なんて言ってもらえるようにしたいものだ。
あと、ここの流鏑馬は一泊とはいえ練習や夕食をご一門の方々とご一緒させていただけるため、色々とお話できる機会も多い。
礼法の流派でもあるので、皆さんとても丁寧な挨拶をなされるが、決して堅苦しくない気さくな方ばかりだ。
こういうご縁も大切にしたいと思った二日間であった。
水破黒です。
馬関係の資料を読んだり探したり、行事の準備計画その他、日々馬まみれなアタマから脱却しようと友人と信州へ出かけましたが、常日頃の癖はそう取れるものでもなく(笑)やはり馬にばかり目が行く旅でした。
そのいくつかを紹介。
上田から信州入りした今回の旅で最初に立ち寄った上田城。
櫓内に上田藩関係の資料などがあり、その展示の中に、公用の旅行者用に事前に沿道の宿駅の問屋に人馬使用の予定を通知する「先触(さきぶれ)」という書状などがありました。
写真は、積荷量が一駄40貫=150kg(または36貫というものも)と決められていた「本馬(ほんま)」に対し、積載量が半分(75kg) もしくは旅人+5貫以内の手荷物だった「軽尻(からじり)」という駄賃馬1頭と人足を1人の依頼書。
ということは人の体重は平均60キロ弱とした計算?
江戸の人は発育が悪くて小さかったといいますが、意外にしっかりと重い標準設定ですね。ちなみに本馬と同じような扱いで人が20貫の荷と共に乗るものを「乗掛(のりかけ)・乗掛馬」と言ったようです。
本文によれば浅草から小諸まで、中仙道を180キロの距離を4日半の行程。
8日の朝7時頃に浅草を出立して、その日の夜に上尾の宿(埼玉県上尾市)
9日の夜に新町の宿(群馬県高崎市新町)
10日の夜に松井田の宿(群馬県安中市松井田)
11日の晩に小諸の宿
となっています。
このころは1日十里(約40キロ)歩くのが普通だったそう。
ちなみに参考までに、新町の宿から松井田の宿までの駄賃が
軽尻馬一疋:296文
人足1人 :229文 (参考HP:中仙道)
人よりも馬の方が使役料が高いのは撮影用の馬とエキストラの関係と同じようです(笑)
こういった、各宿場の間を行き来する形態の役馬の他、出発地点から目的地までの通しでの貸切輸送の中馬(チュウマ・ナカウマ)という民間業者もあります。
他、最後の上田藩主、松平忠礼の乗馬姿の写真もありました。
慶応から明治の初年写真で、上田藩が洋式兵装を採用してからのものだそうです。
馬は乗系の形をしていますが、江戸も末期になると在来の馬に輸入馬をかけることが各大名間で行なわれていたようなので、これが純粋に在来の馬の形かどうかはわかりません。
その後古代には大伴氏が牧を持っていたという真田から菅平あたりを抜けてゆきます。山に挟まれた日当たりの良い緩やかな傾斜地は、確かに牧には向いていそうです。日当たりの良い、なにかおっとりしたものを感じさせる土地。
翌日に訪れた松代の真田宝物館には、めずらしい「作りかけの鞍と鐙」が展示されていました。
組みあがった状態で、漆をかけていない白木状態のもの。
作りかけだったのか、白骨のものをそもそも用意するつもりだったのかはわかりませんが、木目がそのまま見えるので、前輪、居木にどのように木材を使っているかがよく判ります。前輪のカーブに沿って、しかし天然木であるからかっきりと前輪のカーブ通りではなく微妙にずれがある。
この鞍を長いこと乗って、壊れてゆくとしたらきっとこの辺りからひびが入るだろう、ということがなんとなく見て取れます。
鐙のほうは、鉄の枠に木を張った木鐙でした。
金属部分は紋板の縁とカコ、柳葉の部分だけなので、強度の足りなさを補う為か、紋板の付け根の辺りの縁と、鐙の舌の真ん中あたりを金属の細い板で繋いであります。こういう姿のものは初めて見ました。
アルミの鐙などを使うと大抵踏込の奥のUカーブから割れるので、確かにここを繋げば多少補強にはなりますね。
が、和鐙特有の、自由に踏み方を変えられるメリットは大きく減じられます。
ということで、なかなか素地の鞍を見ることはないので、機会があったら足を運んでみてはいかがでしょうか。
長野市松城町:真田宝物館
展示品は季節によって入れ替えているようですので、内容を確認されてから行かれた方がよいかも?今回青江の大太刀は見られなかった。
小布施の升一酒造でやっているダイニングバー「蔵部」の御手洗いの(!)壁にも馬を発見。
もうこの時代になると洋鞍を使用しているように見えますが(写真ではあまりよく見えない)、背広を着るような時代になっても地方ではこういった光景が見られたんですね。
上の写真と比べると、乗系の馬の形と駄系の差がはっきりとあらわれています。
古代から馬と切り離せない文化を形成してきた信濃。
まだまだ面白い馬の記憶が沢山みられそうです。
aammeeです。
牧場仲間のモンドさんにご案内いただき、もーりーさん、茶尾助さんと鶴岡八幡宮の小笠原流さんの流鏑馬を観てきた。
当日を迎えるまでは天気が心配だったが、その不安を払拭するような好天に恵まれ、客足も伸びる。
モンドさんのお計らいで、来客席横のかなり条件のいいポジションで拝見することができた。
かなり早めに場所を確保。その後食事を済ませ、さらに待つ。射手らは1時から拝殿で神酒拝戴式に臨んだ後、馬場入りの儀となる。
拝戴式で神様に挨拶を済ませているので、武田流さんのような馬場での天長地久の儀などはなし。行列が馬場を一往復していよいよ流鏑馬の開始となる。
行列では神職の狩衣や稚児の水干、射手の装束をチェックしまくる。
射手装束は鎌倉時代の狩装束で、引立烏帽子の上から綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂、射籠手、夏鹿毛の行縢を着け太刀を佩き腰刀を差す。背に逆頬箙を負い、征矢5本、鏑矢6本を盛る。
鞭を右手、重籐の弓を左手に握る。足は革足袋に物射沓を履く。
(「鶴岡八幡宮 流鏑馬神事パンフレット」より)
馬場は本殿への参道を塞いで設定される。
全長254.54m(140間)で三的。馬出しから一的までが36.36m(20間)、一的から二的までが78.18m(43間)、二的から三的までが72.72m(40間)。
走路脇の埒幅は弓一杖。
的は54.5cm(1尺8寸)角の正方形の杉板で、的中心まで182cm(6尺)の高さに青竹に挟んで立てる。
馬は那須高原の栃の葉乗馬クラブのサラブレッドを中心に6頭。芦毛やペイントホースっぽいのも混じっていた。馬によってスピードの差がはげしく速い馬はかなり速い。
騎射は流鏑馬が三人、騎射挟物が15人。騎射挟物は流鏑馬に比べて略装。直垂でなく道着、綾藺笠でなく騎射笠(下写真参照)。
矢も流鏑馬は鏑矢で狩股付きだが、騎射挟物は鏑矢。よって箙も使わない。
騎射は素馳せもなくいきなり行われる。さすがは小笠原流さんだけあり、弓を引く姿勢は皆美しいものがあった。
全体的な印象は、武田流さんや我々の流鏑馬と比べて素朴で落ち着いた感じ。
鶴岡八幡宮での神事だからということもあるかも知れないが、それはそれで好印象に思われた。
それでも道着と袴と射籠手の色の組み合わせによっては、なかなか映えるものだなというのは新たな発見だった。
また、これだけの観衆の前で、見事射抜いたときは万雷の拍手を受けるのは正直うらやましいと思った。我々もいつかこんな感じで演武したいものだ。

富士山をかたどったお神輿

お神楽です

富士吉田の火祭りです
これで富士山が山じまい?に。
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